世界に通用する若者を育成するコーディネーター
竹内理沙
英検1級。大学在学中にカリフォルニア大学ロサンゼルス校[UCLA]に交換留学させてもらえると言う幸運に巡り合い、現地で「英語教授法」、「心理学」、「教育学」を学びました。(それらのクラスでオールAを取った学期がありDean’s Honors List[優秀生名簿]に登録され(てい)ました←成績証明書を見返す機会が最近あり、あまりにさらっと書かれていて、そんなものが存在することも知らなかった私は、最近までそのことに全く気づいていませんでした。履歴書に書くと就職や進学に有利になることのようなのに、何の役にも立てられなかったのでここで密かにアピールに利用する…)
小学校(全科)と、中学校、高校の教員免許(英語)を持ち、大学卒業後に公立高校(4年間)、その後公立中学校(3年間)の計7年間英語教諭、クラス担任として教壇に立ってきました(思えば中1から高3まで全ての担任を経験していました)。夫の金沢での就職を機に、それまで勤めていた東京都の教諭を退職し、金沢にて当教室を2015年に開校。小中高の英語教育の流れを理解した上で、バランスが取れた英語学習を提供できるのが強みです。
もう少し、私のことについて興味を持ってくださる方へ
私は、小学校からの英語教育がまだない時代、今は廃校になってしまった高知県西部の中学校(当時同級生16名)で初めて英語に出会いました。リスニング力もなく発音の仕方もわかっていなかったけれど、英語が好きで文法と読解だけはコツコツ頑張る中学生でした。中学2年生の時に赴任してきた英語の先生(山田先生)のおかげで、さらに英語が好きになりました。中3で3級取得のごくごく普通の中学生。自分に自信がない中学生だった私は、高校受験に受かる気がせず、親に頼んで中学3年生の夏から個人経営の塾に通い始め、その塾で、私の視野を外へと広げてくださった恩師(谷先生)に出会いました。高校生になった私は教員を目指し始め、当時田舎では珍しかったであろう帰国子女の同級生との出会いをきっかけに、外国の教育と日本の教育の違いに関心を持つようになります。悩み多き高校生だったので、自分のような困っている高校生を支えられるような教師になりたいと思ったことが教員を目指したきっかけです。当初は、子供の頃から虫や顕微鏡が好きだったので、生物学者か生物の先生になりたいと思っていて、理系コースに進んだ程度には真剣だったのですが、当時の化学B(だったかな?)でモルの概念が腑に落とせない自分がおり、きっと理科の先生は無理だろうと悟りました。英語は、好きで一番真剣に取り組んでいた教科で、「弱い自分を変えたいから留学したい」と思っていた私にとっては、理科がダメなら英語科の教員、となったのは自明だったかもしれません。高校卒業後は、教師を目指す人が多く進学する都留文科大学に進学し、中学校から続けていたソフトテニスを大学でも続け体育会にどっぷりでした。部活を引退後4年次にカリフォルニア大学に交換留学生として渡り、アメリカのみならず世界中からの留学生と出会いました。「弱い自分を変える荒療治」の位置付けだったはずの留学生活は、最高に楽しいことばかりで、ただただ視野を広げてくれ、「弱い」私を、「しなやかな人」にしてくれたと思っています。英語は私にとって、自分の世界を広げてくれたかけがえのないものです。私に「教える者」としての価値があるとすれば、「分からない気持ちが分かる」ということ、そして「誰でも英語はできるようになると信じていること」だと思います。