国際感覚とは何か

国際感覚とは何か

グローバル・カラーズはただの個人経営の英語教室ですが、生徒さんの要望があれば、結構何でもお手伝いするので、教員時代の経験を活かして進路の相談はもちろんのこと、入試のための小論指導も面接指導だってします(もはや英語じゃない…笑)

「国際感覚を身につけたい」と書かれたある小論を見せてもらいながら、ふと頭によぎったことがあります。

 

「国際感覚」ってなんでしょう

 

「国際感覚を身に付けたい」

「国際感覚を身に付けた人になってほしい」

そんな目的を持って、英語を学ぶ、もしくは学ばせる方も多いと思います。

 

「国際感覚」とは実に曖昧で、便利な言葉だと思います。

「英語を身につける」ということが「国際感覚を身につける」と同じように扱われることがありますが、英語を身につけていることは、必ずしも国際感覚があることを意味するわけではありません。国際感覚とはその人の持つ「視点」だと私は思います。

 

英語は国際感覚を身につける上でのツールとして大切だとは思いますが、英語が身についても国際感覚が自動的に身につくわけではなく、英語やその他の外国語ができなくても国際感覚がある人だって当然います。

 

私の思う「国際感覚の話」を少ししてみたいと思います。

私は、「国際感覚」を持つ上で大切なこととは以下の二つだと思います。

 

・視点を上にあげること、自分の思い込みが間違っていないかに関心を持ち続けること

・その国のことや、そこに暮らす人のことに寄り添わずして、メディアの情報と思い込みで判断したりしないこと

 

この二つを意識しながら、常に世界についての情報に意識を配ることが大切だと私は思います。

 

「何が国際感覚か」の答えはないですが、「国際感覚があるとは、きっと例えばこんなことを理解できることだ」と私が思うことを、小さなことから大きなことまで挙げてみたいと思いますので、ご自身の意見や経験とも重ねながら読んでいただけたらと思います。^^

 

「国際的視点を持つ」とは、きっとこんなことを理解していること

「箸、お上手ですね。」と褒められて喜ばない外国人の方がいる

「外国人」と聞いてどんな人を思い浮かべるか

 海外に行くと、自分も「外国人」である

「アジア人」が表す範囲を自覚している

「欧米人」=「国際的」ではない

   文化の違い美徳の違いではない

「アジアとアフリカの国々は貧しい」わけではない

そして、

 日本人が「日本が一番」と思っているのと同じように、全ての国の人々が祖国を大切に思っていることを理解できること

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「箸 お上手ですね。」と褒められて喜ばない外国人の方が多くいることを知っている

「国際感覚」という話題で挙げるにはちょっと幼稚な例かもしれませんが(笑) でも、欧米系の外国人の知り合いからよく耳にするので、これは「巷でよくある話」なんだと思います。なんで外国人が「箸 お上手ですね」と言われて不快な思いをする場合があるのか。こういう風に想像してみると分かりやすいと思います。私たちがスプーンやフォーク、ナイフを使っているのを見て、外国人に 「わ〜お上手ですね」と言われたらどんな気持ちになるか。違和感を感じたり、「この人は自分のことを何だと思っているのだろう」と感じたり、中には「馬鹿にされている?」とさえ感じる人もいるのではないかと思います。箸を日常的に使う国は、アジア圏に限られますが、中華料理を筆頭に多くの食では箸を使い、そのレストランはそれこそ世界中にあります。当然、世界中の人が箸を使ってそのレストランで食事をしています。箸が使えることは、多くの外国人にとって、私たちがフォークやスプーンを使うのと同じ「当然の心得」です。ある外国人の方が言っていたことが印象的です。「日本に来てから、あまりにも自分が箸を使えることを褒められることが多くて、実はすごく不愉快に思っていた。でも何度もそうやって話しかけられる内に、”あ〜自分との話のきっかけに言ってくれているんだな”、と思うようにして、今はやっと笑顔でありがとうといえるようになったよ。」

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「外国人」と聞いて、どんな人を思い浮かべるか

これは、「外国」と聞いてどこを思い浮かべるか、とも似ているかもしれません。「外国人」「外国」という言葉を、狭い意味で使ってばかりいないか振り返ってみるのも良いと思います。一番極端な例は「外国人?あ〜アメリカ人?」…これはちょっと笑えますね。これはどうでしょう。「外国人?あ〜白人?(金髪青目を想像)」(ブロンド青目ともしかしたら思い込んでいるあなたの周りの白人さんも、きちんと客観的に見ると金髪青目ではないことの方が多いかもしれません。そのことに気づいた方は、これまでどれだけ「白人=金髪青目」という思い込みと先入観で知人友人を見てきたかを実感するでしょう。外国人を表すイラストなどで、白人が代表の様に選ばれ、なおかつ金髪青目として書かれていることがありますが、それは非常に外国人の現実にそぐわないステレオタイプでもあります)
言わずもがな外国人とは、その国以外の国を母国とする人のことですよね。私たちの世界地図に、日本以外はどんな国がありますか。

 

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海外に行くと自分も「外国人」であると分かっている

こんな話を聞いたことがあります。現在「日系」と呼ばれる方々の先祖にあたる方が、海外に移住した際に周りを見渡して「外国人ばっかりやな〜」とおっしゃっ たと言う話です。本当に感じたままのことを言われたのでしょうし、当時としては誰にでも違和感なく響く表現かもしれません。けれども、この言葉には「自分こそが外国人としてその地に降り立っている」という視点が抜け落ちています。この「外国人としての自分も存在しうる」という視点は、大切なことを私たちに教えてくれると思います。

 

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「アジア人」に、日本人が含まれること

私たち日本人はアジア人です。間違いなくアジア人です。…と言われて「何を当然なことを声高に…」と思う人もいるでしょうし、なぜかちょっと違和感を持つ人もいるかもしれません。あなたはどちらでしたか?私は、今考えると恥ずかしいのですが、アメリカに行って初めて、自分がアジア人だと本当の意味で気付きました。なぜ気づくのに20 年もかかってしまったのか。振り返ってみると、特に昔はメディアでも巷でも、「アジア人」と人がいう時には、なぜかそこには日本人は含まれていないニュアンスがあり、その事に何に疑問も持たないほど私の視点が狭かったからです。私は自分がアジア人であることを、アメリカに行って初めて実感しました。客観的に見てアジア人というカテゴリー の中に、間違いなく自分が入っていること、そして主観的に見ても、自分は同じアジアの人たちに親近感を抱きやすいことを実感したからです。世界中のたくさんの人と友達になりましたが、同じアジア圏の人と話す時は、お互い見た目だけではなく感覚も似ていて、あえて言わなくても分かり合えることがたくさんありました。アジアの中でも、特に韓国と中華圏と日本は、お互いがグローバルな視点を持てたら、今以上に仲良くなれるはずの国だと思います。

 

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「欧米人」=「国際人」ではない

「欧米人」と聞くと「なんだか国際的」こんな風に思っている人が、実は意外や意外、結構いるのではないかと思います。私はアメリカ留学中に、自分のこんな思い込みに気づき笑ってしまいました。私は「アメリカ人はみんな国際的に違いない」と思い込んでいたのです。よく考えてみればそんなはずはありません。アメリカ人の中には、当然ながらアメリカの外に一歩も出たことがない人や、「外国人」がほとんど住んでいない地域に暮らしていて、アメリカ人以外とほとんど接点を持ったことがないアメリカ人もいる(それも相当数)、という至極当然のことにそれまで気付いていなかったのです。振り返ってみると、私が出会ってすぐに仲良くなれたのは「インターナショナルに違いない」となぜか私が思い込んでいたマジョリティーのアメリカ人ではなく、海を渡ってアメリカにやってきていた世界中からの留学生でした。ちなみに海外に出たことがあるアメリカ人や、マイノリティーのアメリカ人(例えば両親が欧米以外からの移民の方)とも仲良くなりやすかったです。それは、きっと彼らが「国際人」だったからだと思います。アメリカ以外を知らなかったり、「外国人」 である私に心が開いていないアメリカ人と心を通わせるのは、ちょっぴり難しかったです。これは日本に住む外国人の方にも当てはまる状況だと思います。きっと日本以外に関心のない日本人と友達になるのも、日本に住む外国の人の方々にとっては難しいのではないかと思います。

 

culture and virtue

「文化の違い」は必ずしも「美徳の違い」ではない

留学してアメリカ人だけではなく、たくさんの国からの留学生と交流をして見て、私は何が文化的なもので、何が多くの国に共通する特徴かが少し分かるようになりました。文化とは国ごとに異なることが多く、けれども美徳は普遍的なものではないかと私は思っています。

違う文化の風習を見て、「この人たちは変だ」「この人たちは失礼だ」と感じたことはありますか?その人たちは美徳のない人だと心の中で切り捨ててしまわず、少し「人に対して良くありたい」という美徳は世界共通ではないかという前提に立って、もう一度その行動を見直してみることが必要ではないかと思います。

先日、ベトナム人の友人の家族が帰国するとのことで、ちょっとした贈り物をお家に届けました。小学1年生のお子さんにプレゼントの包みを渡したとき、私は密かに中身を見て気にいるかどうかの反応が見れたらな、と期待していました。けれども若干6歳のその子は、おそらく中身が気になっているはずですが、その包みを開けることなく、大事そうにそれをベトナムに持って帰るランドセルの中に入れました。母である友人も「プレゼントを開けてみなさい」とは言わず、子供のその行動は、むしろよくきちんと教育がなされているそれでした。そのとき、私は気づきました。これはアジアの文化だ!と。私は子供の時、頂いたものが気になってその場でガサガサと開けようとすると、親に「コレッ!」と言われた記憶があります。中身が気になって仕方なくて覗いてしまうなど節操なくお行儀が悪く失礼とされたからです。一方、ご存知の方も多いかもしれませんが、欧米ではもらったプレゼントが包まれていた時は、その場でかなり盛大にビリビリします。包みを大事に折りたたんで取っておく習性がある日本人には結構ショッキングなほどには豪快です(笑)「もらえて、もう嬉しくて」という気持ちを、もう待てないので破いてしまうぜ、という感じで表現しているらしいです。日本でも、最近では親しい間柄ならプレゼントをもらったらその場で「開けていい?」と聞いて、喜んだ顔を相手に示せるほどには文化が変わってきているのではないかと思います。

何が言いたいかというと、「プレゼントをくれた相手に失礼がないようにしたい」という美徳は普遍的な共通しているもので、「それをどう表現するか」が文化的なものだということです。

文化の摩擦に出会った時は、共通項探しを楽しんでみるのも「国際感覚」を磨く良い方法だと思います。

 

asia

「アジアとアフリカの国々は貧しい」と思い込んでいないか

今思い出しても、胸が苦しくなることがあります。あるアジア圏の国を訪れた際の出来事です。その国で、私はその国のために寄付をしに来た日本人に出会いました。現地の学校に寄付をするにあたって、学校側が式典を催し、なかなか聞けない伝統的な演奏もあるからと誘われて、私も軽い気持ちで参加しました。その国は、確かに断水があったり、電気が止まることもある国でしたが、人々の暮らしに必要なものもインフラも何不自由なく揃っており、また私たちが訪れた学校は立派な建物に、冷暖房も学用設備も何不自由なく整っていました。壁にかかっていた写真の中の制服のデザインは現代的で、ちょうど新学期のための制服の採寸が行われてました。校長先生も、おしゃれで綺麗な服を着て、私たちに学校中を案内してくれました。講堂では式典のために椅子が並べられ、 校長先生や何人もの生徒さんが、夏休み中にもかかわらず集まり、伝統的な衣装を着て舞や演奏をしてくれました。私はその式典の最後で見た光景に、強烈な違和感を覚えました。寄付のために来られた日本人の方は、段ボールに入ったサッカーボール(新品だが上質なものではない)やバスケットボールを学校に寄付し、校長先生はお礼に立派な楯(たて)をその方に渡されていました。「寄付する品物」に「サッカーボール」を選んだその人の選択に、その方の「その国像」が現れているようでした。(サッカーボールが買えないような貧しい国の子供たちが、寄付されたサッカーボールを整備されていないグラウンドで蹴りながら、はち切れんばかりの笑顔でいる。…というようなイメージに基づく選択に思えます。) 学校も子供達もその寄付を必要としているようには見えなかったし、学校側がこの寄付のために割いた時間とお礼の品は、寄付されたもの以上の手間と労力がかけられているように思えました。あのキラキラ輝く楯には校長先生のプライドを示す無言のメッセージがあったように私は感じられました。どんな風に自分の国が思われているかが透けて見えるような行為に対して、笑顔でサッカーボールを片手に日本人と記念写真を撮る校長先生に対して、私は同じ日本人として恥ずかしさを覚え、「善」の皮を被った非礼に、 心の底から申し訳ない気持ちになりました。これは私には知りえないことですが、もしその日本人の方が、寄付金を募り、そのサッカーボールを届けるために飛行機代もその寄付金から出して、その国にそんな失礼なことをしにきているとしたら、お金の使い方を考えた方が良いし、その行為がその国の人に良い影響を与えているかどうかさえ疑問です。私たちは「慈善行為」で人を傷つけていないか、本当にその国の姿が見えているか、本当にその国が求めているものは何か、をきちんと見極める必要があると思います。

 

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多くの日本人が「日本が一番」と思っているのと同じように、全ての国の人々が祖国を大切に思っていることを理解できること

このことに思いを馳せるということができるということは、とても大切なことだと思います。日本人が「日本が一番」と思っているのは健全な気持ちです。しかしその気持ちが、「他の国の人も日本が一番だと思っているに違いない」というレベルまで拡大してしまうと、少し視野狭窄に陥っているのではと心配になります。もちろん世界から尊敬を集めている日本の特徴もあるでしょう、けれども同時に耳には入ってこないけれども、眉をひそめられていることだってあるかもしれない、と想像力を働かせられることは大切です。そして、それを指摘されても、過剰に気分を害することなく受け入れられることも大切だと思います(これは、 心しないと結構難しいことだと経験的に実感しています。メディアでは日本に対する否定的な声は聞かれないかもしれませんが、私は個人レベルで外国人の友人からの、日本に対する率直な批判やコメントを直接耳にしますし、それを聞いたときに気分を害さずに冷静に聞けるようになるまでにかなりの時間を要しました。)

よく聞く日本の素晴らしいところ自慢「日本が一番!四季があるもの」皆さんも一度は耳にしたことがないですか?日本、特に本州付近の四季は、確かにそれぞれがはっきりと分かれ、桜、紅葉、雪などその季節を代表するものがある印象があります。私も、年中温暖な気候からきた外国人に、「日本のはっきりした四季が良い」と言われたことはあります。けれども「四季があるから日本が一番だ」という台詞を聞いて、違和感を覚える外国人の方も同時にいます。それも相当数です。「日本には四季がある」この言葉が、どんな風に他国の人に響く可能性があるか、こんな風に考えてみると分かりやすいかもしれません。例えばある国の人が「うちの国は一番!海と山があるから」と言っていたらどうでしょう。「日本にもあるな〜、海と山…。知らないのかな…」もちろん海がない国だってあります。でもそうだとしても言いたくなりませんか、「海と山って何もあなたの国だけの専売特許じゃないですよ…。他にもいっぱいあります、そういう国。」って。「日本が一番!四季があるから」という発言をした人がどんな風に他国の人の目に映るのか。他国のことを知らず、自分の国にしか興味がなく、そして想像力や常識の足りない、井の中の蛙のように見られる可能性もあるかもしれません。

ある国を旅行中に、現地の人と、その旅で訪れたその国の観光地や、美味しかった食べ物の話をできることは、とても楽しい経験の一つになるはずです。ですから、日本を観光客として短期で訪れている外国人の人に会う機会があったら、そんな話題で盛り上がってみるのも良い交流の一つになるのではないかと思います。けれでも、日本に市民として長期で住んでいる外国人の方に会ったときは、住んでいる人だとわかった時点でそのような話題を振ることには気をつけるべきだと言えます。日本に長く住む外国人の方の多くが不快に思っているのが、「日本人に日本のことばかりを聞かれる」ということです。「日本食は何が好きですか」「日本のどこが良かったですか」「日本文化はどんなことに興味がありますか」はじめの一回は、楽しく話せるかもしれません。でもその外国人にとって、自分自身も実際に住んでいる土地で、初めて会う人会う人に繰り返し繰り返し「どう日本?素敵でしょ?素敵でしょ?もっと言って!」という態度で来られると、辟易としてしまうことは容易に想像できます。その外国人の方も、失礼がないようにと、話を合わせて、良いところの話をしてくれるでしょうから、なかなか気づかないかもしれませんが、大変な苦行を強いてしまっていることを、私たちは自覚すべきです。会話は、自分たちをそうやって気持ちよくさせるような目的のためにするものではなく、互いの国のことを知りあうためにするべきものです。

最後に、先日耳にした実際の日本人の声を紹介したいと思います。「日本のお笑いほど洗練されて面白いものはない」というものです。(…もっと他になかったのか、という例で申し訳ないですが 笑)この意見を聞いてどう思われますか?

「アメリカンジョーク」と言う言葉があります。時にそれは「低レベルの面白くないジョーク」というニュアンスで言われたりもします。「日本のお笑いは面白いけど、アメリカンジョークは低レベルで面白くない」と思っている人もいるでしょう。けれども、自分には理解できなくても、アメリカンジョークはアメリカ人にとっては最高に面白いかもしれない、ということが理解できることは大切だと思います。アメリカンジョークを理解することは、国際感覚を持つ上で大して(というか全然)大切ではないと思いますが、でも「アメリカンジョークはアメリカ人にとっては面白いのだろう」と理解を示せることは、とっても大切な国際感覚だと思います。実際、外国人の中には、日本のお笑いを「子供っぽくて低レベル」だと思っている人もいます。頭を叩いたり、大きな声を出したり、変な顔をしたり、奇妙なダンスをするお笑いもあるからです。でも、お互いが「相手にとってはきっとそれは面白いのだ」と理解を示せることが大事ですよね。

 

 

何だか、もうちょっとかっこいい締め方をしたかったのですが、最後はお笑いの話で終わってしまいました(笑)

 

「国際感覚」は時代とともに刻々と変わっていくものだと思います。アンテナを高くして、それをアップデートし続ける努力をすることが大切なんだなぁと、身が引き締まります。

 

例えばグローバル・カラーズが英語教室として、子供達に伝えたいのは、

「周りの情報に流されず、自分の耳で聞き、頭で考え、相手の視点を持ち合わせられるようになること」です。

 

ちょっとずつ、英語だけではなく、そんなことも伝えられたらいいなと思っています。

 

2020年1月18日追記:このページの内容が興味深いと思われた方は、私が最近読んで感銘を受けた以下の本をお勧めします。このページの上記の部分は、この本の出版前に書かれたので、特に「アジアとアフリカの国々は貧しいと思っていないか」の中の記述は私の経験に基づいて書かれているだけですが、この本の中にあるデータなども合わせてみていただくと、もっとより世界のことが見えるのではないかと思います。お勧めの本です。

 

 

2021年7月追記:「国際感覚」番外編

「お綺麗ですね。ハンサムですね。」と相手の容姿を褒めてはいけない!?

これについては、「国際感覚」と言えるほど、世界共通の感覚ではなく、まだアメリカを中心とする地域が主ですが、近年の潮流として重要な点で、今後より多くの国で主流になってくる感覚と考えられるので、追記いたします。少なくともアメリカでは10年ほど前からこの流れはあり、知識層を中心に、「人のことを中身ではなく見た目で判断するのは浅はかで失礼だ」とする傾向があります。ですから、例え相手を褒めるつもりだとしても、その人の外見に触れることは、軽蔑されかねない行為であることに留意が必要です。

私の個人の体験では、留学中の課外活動で知り合ったアメリカ人の同世代の女の子が、私が日本に帰国して1年後(!)にfacebookで私を見つけて友達申請をしてくれて「私のこと覚えてる?」とメッセージをくれたことがありました。その時私は、返答のメッセージで「友達申請してくれてありがとう、嬉しい!そんなに話す機会がなかったけど、もちろん覚えてるよ、とても綺麗な人だったから!(笑)」と返事をしました。彼女はそれっきり会話を続けることなく、彼女はわざわざ私を見つけて友達申請をしてくれたにもかかわらず、私のメッセージに対する返信もなく、それ以降facebook上でも全く交流が生まれませんでした。見つけて申請をしてくれたにもかかわらず、返信がないというギャップになんだか違和感があり、何か悪いことを言ったのかもしれない、とずっと引っかかっていた出来事でした。その当時(2008年)の私には、容姿を褒めてはいけないという「常識」がなく、何がダメだったのか分かりませんでしたが、今だったら、なぜ彼女が即座に私との交流を切ったのか、その感覚が分かります。彼女からすると、彼女の容姿にしか話で触れず、美人だったということでしか彼女を記憶していなかったことで、彼女を傷つけた可能性があり、もしくは私をとても薄っぺらい人だと判断した可能性があります。

多くの日本人にとって、「人の容姿を褒めてはいけない」というのは寝耳に水で、少し納得がいかない感覚だと思います。実際多くの欧米人は、日本で「ハンサムだ、美人だ」とことあるごとに言われているようです。良かれと思って言っている(しかも本音)なのは伝わるので、表立ってめくじらを立てる人はいないかもしれませんが、容姿にばかり言及されて、人知れず嫌な思いをしている人はいると考えられます。また「見た目にコメントをするべきではない」、ということを日本人に説明しても「なんで?褒めてるのに?」などと、納得してもらえる可能性が低く、それについても黙っている可能性があります。表立って大きな摩擦にはなっていない「容姿に言及問題」ですが、中には日本人側が、特にすぐにでも止めるべき、見た目に関するコメントがあります。それは「鼻がたかい」と「顔が小さい」です。どちらも日本では褒め言葉ですが、欧米人にとっては「馬鹿にされている」と感じかねないコメントです。鼻を小さくする整形があるほど、欧米の人はどちらかというと鼻を小さくしたがっています。その整形手術にnose jobという名前がついているほどです。また頭が小さいのも、日本人は「モデル体型でバランスが良くてかっこいい」くらいの感じで言っていますが、言われた方は「おつむが小さい」というニュアンスで捉えます。つまり、馬鹿だと言われているように感じるので、この二つは、踏んではならない地雷のようなものです。容姿の良い悪いの基準は、文化的にも大いに変わるので、そういう点でも、容姿に関する言及は触れないに越したことがない、とも言えると思います。一方、同じ外国人と言えど、アジア圏の外国人の人々の美に関する感覚は、日本人のそれと似通っていて、褒めどころ(目が大きい、小顔、鼻が高い)がずれることは少なく、また容姿を褒める行為それ自体にも寛容であると言えると思います。

参考